2026/01/06 17:32

 佐賀は一足早く明治維新を成し遂げた、とは司馬遼太郎氏の弁でしたが、それは近代化のモデルを一藩で成


し遂げたからだといえるでしょう。


 つまり富国強兵、殖産興業の推進でした。


 本年三月、佐賀城本丸御殿の前庭に、卓越したリーダーシップを発揮した鍋島直正公の銅像が再建されました。


大正期に大隈重信の提唱で建設されたのですが、戦時中の金属供出令で台座だけが遺されていました。


2018年、明治維新百五十年を迎えましが、佐賀では符牒を合わせた如く一足早く想いを高めていました。

 

直正公の偉業はまず何といっても人材の育成でした。


蘭学や英学の奨励に続き、「鉄は国家なり」と云われたように製鉄に必要だった反射炉の建設で大砲や蒸気機


関の開発を容易にした結果、幕末最大の軍事力も保持したのでした。

また医学上も、種痘の試みなどに先鞭をつけました。


 有田焼は十七世紀から、オランダ貿易で藩の殖産興業として財政を潤してきました。この収益は幕末に於い


ては藩主の機密費に回され、西洋の科学技術の導入や開発に使われたのでした。

 

明治維新に際し、一の殖産興業から国家レベルに引き上げられ、有望視されたのが伝統産業でした。とりわ


け有田焼が花形とみなされたのは、江戸期の実績があったからで必然性がありました。


 慶応三年(186)のパリ万博参加は幕府の号令に基づくものですが、佐賀藩は率先して参加しています。前々年に二人の藩士をイギリスへ密行させるというてまわしのよさで、パリの万博に呼び寄せ手伝わせています。有田焼も出品されていますが、記録ではそれほど成果を上げてはいません。

 パリにギメという美術館がありますが、ここに鍋島のコレクションがあります。これはパリ博の時に出品れたものではないでしょうか。団長の佐野常民が帰途、オランダに立ち寄り、軍艦を発注してきたとも伝えられています。

 この経験は明治六年(1873)、オーストリアのウィーン万博で生かされることになります。明治新政府が公式参加した初めての万博ですが、佐賀藩の人材が活躍しています。総裁は大隈重信で副総裁は佐野常民でした。大隈は事務方の総裁で、現地には赴いていません。

 この万国博覧会は日本の近代化に大きな意味を持つものでした。明治四年(1874)に出発した不平等条約改正を主眼に置いた米欧使節団の最終目的地が、万博が開催されているウィーンであったことでも推察できます。岩倉具視を全権大使として大久保利通、木戸孝允、伊藤博文と云った新政府枢要な人物が一年十か月もの間、日本を留守にして派遣されたのでした。

 ちなみに、この際の報告書でもあり、今後の日本が近代化を図るにあたっての教科書ともいえる『遣米欧回覧実記』は、同行した旧佐賀藩士久米邦武によるものです。彼の父親、久米邦郷は有田皿山代官であった関係上、有田には知己も多く、なじみ深きところでした。彼の西洋の窯業技術に関する記述は、有田の近代化に資する内容になっています。

 この時代の日本人の西洋観察から得た知見は、その後の日本の行く末の基盤になったことは疑いようがありません。久米邦武は帰国後、有田焼の輸出振興に一役買って小規模に割拠している窯元を統合させ「会社」設立を促しました。こうして生まれたのが、明治八年(1875)設立の「前期香蘭社」です。寄せ集めの会社は四年後に解散して、香蘭社は深川家単独の経営になり、他は新たに精磁会社を設立しました。久米はこの会社の出資者の一人として名を留めています。

 ウィーンの万国博覧会に出品された伝統工芸品は総じて好評で、ジャポニスムブームに火が付きました。


有田焼も大きな成果を収めることができ、次回の明治九年(1879)アメリカのフィラデルフィアに大いに


期待が寄せられました。


同行していた佐賀出身の松尾儀助が社長となる「起立工商会社」が半官半民で設立され、輸出振興をけん引し


ていくことになります。


輸出が拡大するためにはブームに終わらせないことも大きな課題でした。


佐賀の小城藩士であった納富介次郎が同行して感じたのは、まさにこの命題でした。


異国情緒を煽るものだけではなく、和洋折衷ものであるとか、洗練度を高めることを求めた図案の改良改善を


図ることを献言したのです。デザインを図案と翻訳したのは彼であると言われています。


こうして編纂されたのが『温図録』でした

 

「染付金高蒔絵富士に御所車図大花瓶」 高さ186cm 明治6年、ウィーン万国博覧会出品作品です。