2026/01/08 10:56

(3)明治伊万里の特徴
■シノアズリーからジャポニスムへ
明治伊万里は、富国強兵の為に殖産興業を推進して、輸出による外貨を獲得せんとする近代国家建設の一翼を担わせられていました。
現在、日本には220の伝統工芸があるそうですが、明治初期には輸出品として有望視され、貿易高の一割をそれらが占めました。
慶応三年(1867)のパリの万国博覧会には幕府と佐賀、薩摩の二藩しか参加していませんが、出品したものはそれらの品々が網羅されていて、大反響を呼びました。やがてジャポニスムの旋風は欧米へ拡散していきます。
十七世紀に輸出された古伊万里は、欧州のバロック様式のインテリアに見合う愛玩物であり、中国磁器の代替品としてのシノアズリー(東洋趣味)の域を出ず、マイセン磁器を産み出すぐらいで、さほど影響を与える程の物ではなかったと思われます。
しかし、西欧人が幕末から明治初期に来日して驚愕したことでも分かりますが、明治伊万里には江戸期に醸成された、もののあわれや王朝の様式美に加えて、武家の漢学の素養、或いは庶民の自然風土に同化した日本固有の精神文化が内在したものでした。
ジャポニスムは日本趣味と訳されますが、欧州の印象派やアールヌーボーなどの芸術家達に渇仰させる程の影響を及ぼしたことは周知の事業です。
■多彩で奥深い日本固有の題材
日本美を留めた図案の改良に力を注いだのは佐賀の小城出身の納富介次郎です。図案集『温知図録』の編纂は輸出拡大に功を奏しました。
明治伊万里の図案を精査していくと、神羅万象に神が宿るというような自然崇拝や花鳥風月に心を動かす題材が用いられ、神仏混淆の美術工芸に典拠が窺えます。所謂、吉祥文様である松竹梅や四君子、牡丹に獅子、竹にふくら雀、桐に鳳凰など中国伝来のものから、仏教美術の仏法の雨を降らす龍や架空動物の麒麟、獅子等は格調を漂わせています。有職文様の雅やかできめ細かい七宝地紋類も多用され、静物画の額縁の様な効果を感じます。植物では『万葉集』に詠まれた梅、藤、桜、萩、撫子、菊が多用されています。
また、王朝文学の『源氏物語』、『伊勢物語』などか ら『平家物語』や『太平記』まで、各々の場面を想起させる程、多彩な色遣いと繊細緻密な運筆で活写しています。
『源氏物語』では「空蝉の段」の光源氏が空蝉の動向を窺っている場面であるとか、『伊勢物語』では在原業平の東下りが描かれています。『太平記』では、児島高徳の院庄に於ける後醍醐天皇救出の際に詠んだ漢詩で心情吐露した図、或いは楠木正成、正行父子の櫻井別れの図等、物語は西欧人好みだったに違いありません。
■新しい絵の具、優秀な絵師
また、明治三年(1870)に有田に迎えられたドイツ人技師のゴッドフリート・ワグネルがもたらした釉下彩や洋絵の具で、表現の幅が拡がりました。さらに、藍色の顔料であった呉須から安価な酸化コバルトを使用することになり、明治伊万里は江戸期のものよりも色彩が明るく派手に発色しています。古い有田焼の鑑定の根拠になります。
明治十一年(1878)のパリの万国博覧会に出品した香蘭社の社長、八代深川栄左衛門は、黒色顔料である酸化ウラニュームを持ち帰り、水墨画風の色絵磁器に利用しました。絵師は佐賀久保田出身で、読売新聞を創設した本野盛亨とは従兄弟になる高柳快堂が招聘されました。彼は中央にも知られた南画家でした。快堂の長男、豊三郎は読売新聞の三代目社長に就任しています。
快堂の陶画の傑作は四尺もある染付の山水画ですが、明治二十六年(1893)のシカゴ万国博覧会に出品され、その後東京国立博物館の所蔵になっています。快堂のみならず、日本画家などを招聘して製品を洗練させていきました。
特筆すべきは古代中国の青銅器の造形や饕餮文様に倣ったものもあることです。
■ディナー皿の開発、量産化、万博伊万里・ジャポニスムの沈静化
輸出払大を狙い、日本の伝統美を留めながらディナー皿の開発に先鞭をつけたのは明治伊万里でした。明治十六年(1883)に鹿鳴館が竣工した時には、本格的なディナーセットが「精磁会社」によって完成をみました。宮中晩餐会の食器はフランスのセーブルのパルメット文様を縁飾りにあしらい、見込みは五七桐を配した本歌を凌駕する程の出来栄えで、明治有田の陶画の真骨頂と云うべきでしょう。
先述した介次郎や有田出身の河原忠次郎が欧州の先進地に派遣され学んで実践して得た成果である欧州の窯業技術である石膏型で量産を計り、薪を燃料にした登り窯から石炭窯への転換を試みるなど、産業としての体制を強化していきます。
明治六年(1873)のウィーン、同九年(1876)のフィラデルフィア、同十一年(1878)のパリの万国博覧会は明治伊万里の檜舞台で、第二の黄金時代を迎えたと称えられました。国家の支援もあり、各国としのぎを削り成長した明治伊万里は、換言すれば万国博覧会の伊万里、略して万博伊万里という新たな様式美を生み出したのです。
しかし、『米欧回覧実記』を著した久米邦武が代弁した「肥前の精美を世界に」という、官民挙げての壮図はやがて潰えてしまいます。
ジャポニスムの鎮静化、世界経済の恐慌、過剰な設備投資が禍して、有田では香蘭社や深川製磁など数社を残して、海外貿易からは撤退していきました。
明治伊万里様式といえば現在ではこの2社を指すようですが、実は多くの有田の窯元が輸出を志向し、試行錯誤の中で技巧を凝らし、巨器に挑み、繊細緻密な運筆に磨きをかけ、日本画に負けない洗練さを付加しながら独特の様式美を打ち出していったのでした。

