2026/01/25 20:07
『呉須赤絵草花文蓋碗』「トラトラトラ」は「ワレ奇襲に成功セリ」。真殊湾攻撃の際の電文です。
「トラトラ」は「トラ拳」と云い、舞芸妓を相手にしたお座敷遊びと知ったのは最近のことです。
コロナ禍でいかにも賑わいを演出するお遊び文化も委縮し喪矢されてしまわないことを願うものです。このトラ拳 (三すくみのじゃんけん)について調べてみると近松門左衛門作の浄瑠璃『国性爺合戦』の主人公、和藤内こと鄭成功を想起させるお遊びのようです。
鄭成功は歴史上、実在した日中混血のアジアの英雄とも称されています。中国明末期の海商、鄭芝龍と平戸藩士の娘「まつ」との間に生まれ、幼名を福松と云い、七歳の時に父の待つ福建に渡ります。才気換発、眉目秀麗なる青年は明朝最期の遺臣として「復明抗清』を掲げて活躍しました。また、台湾をオランダ支配から解放し、孫文や蒋介石と並ぶ「三国父」と崇められています。
明から清への政変は、日本でも徳川幕府が幕藩体制を強化し始めた時期と重なります。豊臣家の減亡、キリスト教の禁教令、鎖国令、目まぐるしい変化の時代に鄭成功の「日本乞師」(鄭氏の幕府への援軍要請)の戦略の中で黄檗宗の隠元、儒者の朱舜水等の派遣による思想文化の日本への影響は計り知れぬものがあります。
筆者はとりわけ三顧の礼を持って徳川光圀に招聘され、水戸学に血肉を植え付けた朱舜水は山鹿素行に薫陶を与え、やがてその行動哲学の系譜に藤田東湖や幕末維新の志士を育てた吉田松陰にまでつながることには感動を覚えるものです。
枚挙の関係で詳しくは述べられませんが、鄭成功が生まれた国際貿易港であった平戸という日本西端の「地の記憶」はアジア全体を俯瞰する歴史を孕んでいます。最近、「平戸」を学びにたびたび訪れるに従いその思いが募ってまいりました。
さて、鄭成功は軍資金の一部にするために陶磁器の貿易をアジア諸国との間に始めます。満州から興った清が鄭氏の力をそぐために遷界令を布き、政変の混乱よりただでさえ疲弊した景徳鎮や福建省の漳州窯等の供給が容易ではなくなります。長崎を目指した明の難民の中にはそれらの窯の技術者も混じっていて、鍋島藩と接点が持たれました。とりわけ、呉須の顔料や上絵の彩色の絵の具などをもたらしたことは有田焼の飛躍的な発展を促すことになりました。
勘合貿易時代より唐物には憧憬を抱いていた国内の生産者は高嶺の花である景徳鎮を目標にしてきたことは想像に難くないでしょう。
古伊万里の器物には「大明万暦年製」、「大明成化年製」の高台銘が記されています。唐物というブランドに渇仰しているのです。
色彩による陶画が有田に生まれた時の感動は如何ばかりであったろうかと思います。ひょっとすると、朝鮮からきた李参平の白磁鉱の発見以上だったかもしれません。
当方では有田焼の赤絵付け(上絵付)源流である鄭成功がもたらした「呉須赤絵」を現実生活に見合った器に移し替えて復刻を試みています。「呉須赤絵」と云えば京焼の磁器を創始したといわれる「奥田頴川」(1753〜1811年)がいますが、彼も明の亡命者の末裔と語り継がれています。他にも工芸の分野で明の末裔という作家は少なくありません。
古来日本は米作、漢字、仏教、思想、芸術文化、法制度等々、中国渡来の物で占められています。しかし、今や近代化は和魂洋才と化し、西洋文化偏重を来しています。否、和魂などは喪失したかもしれません。今更ながら「和魂漢才」を懐かしく思うのは筆者のみではなかろうと思います。
コロナ禍の中で迎える正月に「源流を辿る」、「地の記憶を知る」作業を深め、活路を見出したいと、と心に誓うものです。

