2026/02/03 16:17

 有田町でも明治百五十年に因み「明治有田偉人博覧会」の実行委員会が立ち上げられた。広く顕彰しているが、先人達はパイオニアたるべくあらゆる事に挑戦しては頓挫し、志半ばで斃れ、その累々たる屍は数え切れない。

 十九世紀は万国博覧会の時代であるといわれている。「血を流さない戦争」であった万国博覧会での評価は殖産興業の集大成であり、各地の伝統産業は生き残りをかけての死活問題でもあった。明治の有田焼も世界の檜舞台でしのぎを削り、万博の花形だった時期もあり、活躍した有田の先人は数え切れないほどいるが、次代まで継承された陶家は一握りであり、光と陰が織りなす軌跡はドラマチックである。

 

 香蘭社から分離独立した精磁会社の社長であった手塚亀之助の子息、国一と英四郎も、「父が経営に失敗した後、数奇な運命を辿ることになる。国一は精磁会社の製品をアメリカで拡販する為には直販しなければならないとの意向を受けて、明治十九年(1886)、十九歳で渡米した。今日で言うマーケティングの役割も担っていた事だろう。ボストンの陶磁器卸業者に世話になりながら現地の商業学校にも入学して刻苦勉励したが、無念にも精磁会社は多額の負債や販売不振で整理され、経営も他者に委ねられた。

 

 国一は已む無く、邦人企業の関西貿易会社を経て、前身は森村ブラザーズの日本陶器、ニューヨーク支店に請われ転職した。ニューヨーク支店の開設に多大な功績があった村井保固を補佐し、目覚ましい活躍をして役員にまで出世し、将来を嘱望されたが大正八年(1919)に流行したスペイン風邪に罹り客死した。アメリカ人と結婚して、米市場の性向を把握し、本国に適切な対応を図るべく報告し商品開発に奏功した。彼は太平洋を27回も往復した国際ビジネスマンの先駆けでもあった。

 

 村井は片腕をもがれたような悲痛な心境の中で、国一の生き様を「武士の心は氷のごとし 凝まりて坐すれば岩よりかたし 解けて流るれば塵もとどめじ" はよく氏の性をあらわせり」と墓誌に一文を寄せている。

 

因みに、米市場で成功するためには八寸皿 (10インチディナープレート)の開発が喫緊の課題であったが、技術陣のエースとして入社した、有田出身の江副孫右衛門等の尽力で成功を見た。

日本陶磁器界の悲願でもあった、フラットで真円の洋食皿を有田出身の人物が手がける事になるとは誰が予測できたことだろう。家庭用食器の輸出にかけてはどの産地よりも先行していた有田焼は、既に大きく水をあけられていた。これを機に飛躍的に対米貿易は拡大し、NORITAKE CHINAのブランドは確立され、全米を席捲したのである。

 

 一方英四郎は明治三七年(1904)、名古屋の則武地区に建設された陶磁器工場の落成式に名を連ねるほどに重用され、やがて東京地区の販売代理店、精陶商会を創設して一時は隆盛を見た。父の会社で成功しなかった洋食器の開発や輸出の拡大に、森村組創業者、森村市左衛門の独立自尊の思想が込められた壮図に与した子息二人の能力が見事に開花したことは、時代の潮流に呑み込まれた数多の陶家にあって、数少ない光彩を放った事績である。

 

 掲載の皿の画像は国一が精磁会社の米国市場における形勢を挽回せんとデザインされたと思われるディナー

「色絵墨流し杜若図ディナー皿」精磁会社製 径25cm 明治中期

皿である。