2026/02/14 16:11

「呉須赤絵福字花蝶文皿」17世紀初期
先ごろ、明治伊万里の展示会と講演の為に二〇数年振に台湾に出かけることになった。
勿論、通訳を介しての台湾での講演は初めてでもあり、話の枕として日台のご縁を考えてみた。七年前の東日本大震災の折、台湾及び台湾の方からのご支援は比較的アジア各国に比べ多大なものであったことは記憶に新しい。感謝の意を日本人の一人として述べた。
また、親近感を持って貰おうと、台湾を拠点に明の再興を図った「鄭成功」が日本人の母親を持ち、平戸生まれであり、私自身がその近くからやってきたことを話に挟んだ。
そして、「反清復明」を掲げ、清と戦った軍費が古伊万里の貿易から捻出されたと言葉をつないだ。
むかし習った近松の『国性爺合戦』の主人公、和藤内「和でも唐でもない」は、「鄭成功」がモデルであることくらいの知識もあった。
日本統治時代に話が及ぶと毀誉褒貶が生々しく、本題からも外れるので触れなかった。
本題の明治伊万里が果たした功績、日本の近代化のために外貨獲得の一端になったことや、万国博覧会で各国としのぎを削って洗練されてゆく明治の有田焼の特徴を解説することができた。
帰国してこの拙文を寄せるに当たり、改めて鄭成功の古伊万里に関わったことが、軍資金云々以上に重要なことがあるのではないかと調べてみた。
元和二年 (1616)、朝鮮陶工、李参平の白磁鉱の発見により、日本で初めて磁器生産が始まりはしたものの、中国の明代の景徳鎮の優れた代用品として進化し、欧州へ輸出されて行く過程はあまり明確に論じられてはいない。
オランダ連合東インド会社が仲介して、古伊万里の本格的輸出の前提になる品質の向上は中国からの、とりわけ台湾経由の人的、技術の導入であったことが考えられる。
窯の改良や洗練された文様、色絵の開発などは朝鮮陶工の計らいではない。
鄭成功 (1624〜62)と父、鄭芝龍の活躍した年代と欧州へ輸出するまでに質量ともに発展する有田の状況が重なる。
ここに鄭成功並びに鄭一族の関与があると論考していけば興味は尽きない。
単純に忠君愛国や勧善懲悪の物語ではなく、海賊の異名を持つ彼ら「海商」の果たした近世貿易史として検証しなおすべきだろう。
自国と他国の関わりも、専門分野の垣根を取り払い、学際で角度を変えて考えてみる必要があることを学び、いささか文化交流の末席を汚す意欲が俄かに湧いてきた台湾行であった。
因みに台南や平戸を巡られる際は、鄭成功の足跡を訪ねられては如何であろう。

