2026/02/16 12:54
いよいよ来年に迫った2020東京オリンピック・パラリンピックを控え、幻に終わった挿話である。
オリンピック招致大会では日本のおもてなしフレーズが躍動した。おもてなしの形として前東京都知事によって東京に日本らしい迎賓館建設の計画が持ち上がった。
日本らしさが少なくなり、欧米の大都市と変哲もない東京に迎賓館を建設するという構想は財政的問題とは別次元で筆者は胸が高鳴った。この迎賓館に有田焼が関わっていたからである。
この構想はもともと浜離宮に隣接した幕府の海軍所跡に明治二年(1869)に建設された「延遼館」を復元するというものであった。
近代化の一環で国賓を接遇し、文明国の証の象徴にしたかったのではなかろうか。
その建築様式や狂瀾怒濤の時代に沿った国家的機能はともかく、有田焼で西洋料理に対応した国産化を図ったということに大いに関心を持ったのである。
私は明治初年(1868)に時の外務省から多額の注文が有田に舞い込んだということを側聞していた。
また器の高台の底に「延遼館備 伊万里窯 肥前 嘉壽造」の銘款が記された、「バカラ」のクリスタルのカップで見かけるような面取りが施された形状に多彩な宮廷装束を着た人物、色とりどりの草花、或いは蝶などが艶やかに描かれている。その後、実際に同じ文様が描かれた不思議な円錐形の、高台が普通の細工でない大振りな鉢を入手した。これは後で花器の一部であることが分かった。
この際、延遼館を復元するなら、館内で使用した食器も有田焼で復元してもらいたいと、都庁にも出かけ奔走した。ところが、あの政変である。大手の食器メーカーとの競合は必至だったかもしれないが、資料が揃っている我々には千載一遇のチャンスであった。
我が国の伝統産業は人口減少や生活文化の急変で苦難に遭遇している。
歴史的な背景を有する、ロマンあふれる事績をもとに日本らしさが垣間見られるものを掘り起こして、消費者の関心を新たに喚起する好機であったにも拘らず、実に残念であった。
文中にあった「延遼館備 伊万里窯 肥前 嘉壽」の嘉壽は南里嘉十という幕末から明治にかけて名工と謳われた人である。三代嘉十は養子で後継者がなく窯は廃業したが、有田の三代目の町長でもあった。
本年、末裔の方が有田町と佐賀県にそれぞれ、海外から里帰りしたご先祖の大作を寄贈された。
南里嘉十の存在感は延遼館の食器では示せなかったが、このご芳志で歴史の空白の一端は確実に埋められた。
犬馬の労を取らせていただいた私としては、心残りではあるが、次の機会に活かしたい。
「延寮館備えの銘が入った」備品


